2009年06月16日

内容物は洗浄され、食用にならない部分は

内容物は洗浄され、食用にならない部分は取り除かれる。内容物によっては調理などが行われ、缶に入れられ、場合によっては調味液が入れられる。缶内部の空気が抜かれた状態で封がされる。この後、加熱殺菌される。殺菌温度や時間も内容物により異なる。最後に打検棒でたたいて内容を検査する。これは検査官が、音で内容物の状態を把握するというものである。打検技術者の資格試験が1976年6月以降行われていないため、日本国内で資格を持つ打検士は少ない。

遠征における食料補給の問題に悩まされていたナポレオン・ボナパルトによる懸賞にこたえ、1804年にフランスのニコラ・アペールにより長期保存可能な瓶詰めが発明されたが、ガラス瓶は重くて破損しやすいという欠点があった事から、1810年にイギリスのピーター・デュランド(Peter Durand)が、金属製容器に食品を入れる缶詰を発明した。これにより、食品を長期間保存・携行することが容易になった。ただし、初期のものは殺菌の方法に問題があり、たびたび中身が発酵して缶が破裂するという事故を起こした。これはのちに改良された。 また、1833年にはフランスのアンシルベールによって、缶のふたの回りをはんだ付けし、熱で溶かして缶を開ける方式が考案された。その後、1860年代にブリキが発明されてからは、缶切りが登場するようになった。

缶詰は、初期には主に軍用食として活用された。特に、アメリカ合衆国の南北戦争で多く利用された。のちに一般向けにも製造されるようになり、現在では、災害対策用の備蓄用食品(非常食)としても利用されている。

当初、缶切りは発明されず、開封は金鎚と鑿を用いる非常に手間のかかるものだった。戦場では缶を銃で撃って開けることもあったが、撃たれた衝撃で中身が飛び散ってしまい使い物にならなくなることも多々あったという。このため内容物が固形物に限られ、液状のドリンク類は入れられなかった。缶切りが発明されると液体なども入れられるようになり、内容物のバリエーションが広がった。さらに缶切りが無くても開けられる様にプルトップ(イージーオープン缶)が発明された。

日本での初めての製造は、1871年に長崎で松田雅典によってフランス人の指導の下、イワシ油漬の缶詰の試作が行われたとされている(この段階では缶詰という言葉は存在していない)。

本格的な生産が始まったのは1877年10月10日、北海道石狩市で石狩缶詰所が創業したことによる。初期にはアメリカ人の指導の下、サケ缶が製造されていた。このことから日本缶詰協会はこの日、10月10日を缶詰の日と定めている。当初は缶詰は管詰と綴られた。
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明治時代には、主に海外向けの輸出用、国内向けには軍需用として生産されていたため庶民には普及しなかった。当時の缶詰の価格は1缶が20から35銭で、白米1升が7.65銭であったことから、いかに高価な食品であったかが判る。(出典:日本缶詰協会創立80周年記念「缶詰業界の歩みと団体の活動」)

本格的に普及するきっかけは、1923年の関東大震災以降で、アメリカから送られた支援物資に缶詰が用いられたことによるものとされる。

日本では、缶の底に賞味期限を刻印することが義務付けられている。底面の3行の文字列のうちの2行目が賞味期限表示で、「041010」は賞味期限が2004年10月10日であることを意味する。表示には日を省略し、「0410」(2004年10月賞味期限の意味)でもよい。1997年3月31日製造分までは、この表示が製造年月(日)表記のものもある。また、非常に古い缶詰の中には、製造年を下1桁のみ表し、10月製造を「0」、11月製造を「Y」、12月製造を「Z」と表した時代もあった(例:1982年11月30日製造=「2Y30」)。これは製缶機の刻印能力に限界があったためであった。

日本での缶詰の消費量は、日本缶詰協会によれば4,080,000トン(2002年推計)。ただし、缶ビールと炭酸飲料、スポーツドリンク類を除き、缶コーヒー、果汁飲料の缶ドリンクを含む。250g缶相当で一人あたり165缶で、ドリンク類を除くと37缶である。レトルト食品などの売り上げが伸びており、缶詰の消費量は若干減少傾向にある。

2009年05月30日

皆春院

皆春院 (かいしゅんいん、生年不詳?天保14年5月10日(1843年))、は江戸時代後期の女性で11代将軍・徳川家斉の側室。俗名は八重。姓は土屋氏。実父は御三卿・清水徳川家の家臣・牧野多門忠克。義父は土屋弥三郎知光。家斉との間に徳川斉明、盛姫(鍋島直正室)、池田斉衆、松平斉民、信之進、喜代姫(酒井忠学室)、松平斉良、蜂須賀斉裕の6男2女がいる。
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八重は文化5年(1808年)頃に家斉の側室となった。側室となった当初は美尾と称したが、のちに八重に名を改める。天保12年(1841年)に家斉が死去、八重は落飾して皆春院と号した。この折に剃髪を願い出たが許可されず摘髪となった。また、家斉没後に与えられた大奥での位は上臈御年寄上座であるが、あくまで形式上の物と思われる。のちに二之丸に引き移り、天保14年5月10日(1843年)にそこで死去した。葬地は不明。

皆春院

皆春院 (かいしゅんいん、生年不詳?天保14年5月10日(1843年))、は江戸時代後期の女性で11代将軍・徳川家斉の側室。俗名は八重。姓は土屋氏。実父は御三卿・清水徳川家の家臣・牧野多門忠克。義父は土屋弥三郎知光。家斉との間に徳川斉明、盛姫(鍋島直正室)、池田斉衆、松平斉民、信之進、喜代姫(酒井忠学室)、松平斉良、蜂須賀斉裕の6男2女がいる。
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八重は文化5年(1808年)頃に家斉の側室となった。側室となった当初は美尾と称したが、のちに八重に名を改める。天保12年(1841年)に家斉が死去、八重は落飾して皆春院と号した。この折に剃髪を願い出たが許可されず摘髪となった。また、家斉没後に与えられた大奥での位は上臈御年寄上座であるが、あくまで形式上の物と思われる。のちに二之丸に引き移り、天保14年5月10日(1843年)にそこで死去した。葬地は不明。

2009年04月27日

敷き網

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敷き網(しきあみ)は、網漁具の一種類。敷き網類は定置網のように1箇所に定置することをせず、また、引き網のように水中を引き回すこともせず、張った網を水面まですばやく引き上げるのがこの漁法の要点で、このとき、網の周囲のふちを同じ速さで同じ高さに上げて魚群を逃がさぬ様にすることが技術的に大切である。敷き網類には、水面近くに水の流れを受けて、斜めに幕をたらしたように張る浮き敷き網類と、水底に網を広げてはっておく底敷き網類とがある。後者には小型のものでは川で用いられる四手網や、行動の鈍いカワハギなどを目的とする袋網があり、大型のものでは正方形の網の四隅を4隻の船で上げる四艘長網、さらに大型で船の数を増やした五艘張り、八艘はりなどと呼ばれるものもある。

敷き網漁船
敷き網漁船は、敷き網類を用いて操業する漁船。四艘長網は漁船4隻を用いる。網を上げる合図も灯火信号から無線通信によるものに変わってきた。設備が簡単で漁獲能率がよいので、第二次世界大戦後特にさかんとなった。

2009年04月10日

バロック音楽

バロック音楽とは、ヨーロッパにおける17世紀初頭から18世紀半ばまでの音楽の総称である。一般に通奏低音の使用と、感情に則した劇的表現が特徴であるとされる。今日のオペラの原型や、声楽から独立した形での器楽はこの時期初めて確立された。

バロック(仏英: baroque)という語はポルトガル語 barocco (いびつな真珠)が由来であるとされ、過剰な装飾を持つ建築を批判するための用語として18世紀に登場した。転じて、17世紀から18世紀までの芸術一般におけるある種の様式を指す語として定着した。

音楽に対して baroque の語を使用している用例は18世紀の書簡や批評に既に現れている。ノエル・アントワーヌ・プリュシュ Noel Antoine Pluche は彼の著書 Spectacle de la nature(1746年)の中で、バロック音楽を「歌の音楽」(la musique chantante) の対立概念として提起し、その特徴は「音の大胆さで聞くものを驚かせ、急速さや雑音でもって歌の代用とする」こととしている。18世紀の論客が音楽に対してバロックの語を用いるときにはこのように、奇異であることとか歪みといった意味合いで用いていた(ブフォン論争も参照)。しかし、「バロック音楽」という概念そのものは音楽史にはなかなか定着しなかった。

音楽史的な観点から「バロック音楽」に組織的に言及したのはドイツの音楽学者クルト・ザックス(1888年 - 1959年)である。彼の1919年の論文 "Barockmusik" によれば、バロック音楽は「彫刻や絵画等と同じように速度や強弱、音色などに対比があり、劇的な感情の表出を特徴とした音楽」と定義される。

しかし、17世紀から18世紀にかけての音楽には地方や時期によって様々なスタイルのものがあるため、バロック音楽の特徴を簡略に総括する事は難しい。たとえば、フランスでは、フランス音楽史にバロック音楽は存在しない、と主張し、この時期の音楽を「古典フランス音楽」(la musique française classique)と呼ぶ者もいる。ノルベール・デュフォルク Norbert Dufourcq は1961年の論文 "Terminologia organistica" の中で、17世紀前半のフランス芸術は古典主義に席捲されているため、ドイツ音楽史学で広く用いられる「バロック」の語はフランスの音楽や文化に当てはめる事ができない、と述べている。

今日では「バロック音楽」の用語は、音楽様式・時代様式だけでなく、むしろ音楽史上の年代を指すものとしても広く受け入れられている。

年代別概観 [編集]
以下では年代を追ってバロック音楽の変遷を記述する。それぞれの年代、地域に特徴的な潮流を説明するにあたって、その時代や地域の代表的な音楽家の活動を通して説明を試みている。これらの音楽家はある種の典型例の一つに過ぎず、実際は他の多くの音楽家やパトロン等によって形作られていた音楽環境がそれぞれの地域・時代の音楽の潮流を重層的かつ多様性のあるものとして作り出していた事に注意しなければならない。より詳しくはバロック音楽の作曲家一覧などから個々の作曲家の記事などを参照されたい。

初期バロック(1600年頃〜1650年頃) [編集]
1600年以前のルネサンス音楽では、多くの音楽作品は対位法にのっとって作曲されており、声部の模倣や不協和音の利用法に多くの制限があった。これに対して、北イタリアのマドリガーレ作曲家たちは、詩の内容や詩に現れる個々の語の感情 affetto を音楽的に表現する手段を探求していた。また、フィレンツェのカメラータでは、古代ギリシアの音楽悲劇の復興の観点から、感情と結びついた音楽表現を探求した。これらはそれぞれ違う動機を持ってはいたものの、音楽における感情の劇的な表現という観点を共有しており、それぞれルネサンス音楽の作曲法の枠を打ち破ろうとしていた。

このような運動を推し進めたマドリガーレ作曲家としてはクラウディオ・モンテヴェルディ(1567年 - 1643年)が有名である。彼はしばしば作中で「予備のない不協和音」を用いたが、この事に対するジョヴァンニ・マリア・アルトゥージの批判に応えて、モンテヴェルディはルネサンスの規範による旧来の作曲法を「第1作法」(prima pratica)、それに対し、彼自身を含め新たな技法によって劇的な音楽の表出を目指す作曲法を「第2作法」(seconda pratica) と呼んで、後者を擁護した。

ルネサンス音楽において声楽は3声部以上を持つものが主流であったが、カメラータでは劇中の音楽として、劇の登場人物が1人で歌唱する作品の形式を発案した。これをモノディー形式と呼ぶ。カメラータの音楽劇の最初のまとまった試みは1598年にヤーコポ・ペーリ(1561年 - 1633年)を中心として行われた音楽劇「ダフネ」の上演であり、これを以てオペラの誕生とする意見もある。モノディー形式の例として今日最も有名なのは、ジュリオ・カッチーニ(1545年頃 - 1618年)の Le nuove musiche(「新音楽」、1601年)である。「新音楽」の作品は、歌手の歌うメロディーと伴奏用の低音パートの2声部に加えて、低音パートに数字を添えて記譜されている。数字は低音の上に奏すべき和音を示しており、これはいわゆる通奏低音の原型とも言うべきものである。モノディー歌曲は、ストロペ(同じ旋律の歌詞を変えての繰り返し)を持たない通作形式であり、レチタティーボの先駆でもある。

これらの潮流は孤立して存在していたのではなく、互いに影響を及ぼしあい、また宗教音楽やオルガン・チェンバロ用の鍵盤音楽、またリュートの音楽など他のジャンルにも大きな影響を及ぼした。バロック時代を通して見られる半音階の使用や比較的自由な不協和音の使用もこの時期に一般的となった。

ヴェネツィアでは都市の繁栄に裏付けられた富裕層がいたが、これらの市民のためのオペラ劇場が17世紀中ごろまでに相次いで建てられ、オペラが大流行する事になる。この時期のヴェネツィア風のオペラとしてはモンテヴェルディやその弟子のフランチェスコ・カヴァッリ(1602年 - 1676年)によるものが有名である。これらの作品では、カメラータの音楽劇とは違って、レチタティーヴォとアリア、および器楽のリトルネロによってオペラを構成する形式へと変化しつつあった。また、これらのオペラや各種の祝祭における器楽の需要によってヴェネツィアでは器楽も発達した。ヴェネツィアではルネサンス末期、ジョヴァンニ・ガブリエリ(1554年頃 - 1612年)らによって、コンチェルト形式の器楽が発達していた。オペラのリトルネッロではガブリエリ以来の器楽技法を受け継いでいたが、それとは別に、ダリオ・カステッロ(? - 1630年頃)ら器楽のヴィルトゥオーゾたちによって、旋律楽器の独奏あるいは二重奏と通奏低音による(単一楽章形式の)ソナタが作られた。

同じ頃、ローマでも教皇庁やそこに集まってくる貴族や外国人の邸宅などを中心として音楽活動が盛んに行われていた。これら貴族の邸宅での音楽実践の中で、レチタティーボとアリアの形式を取り入れた室内カンタータが発生していった。また、教皇庁や教会では通常の典礼のためのミサ曲などが作られ続けた一方、祈祷所での宗教的修養が盛んに行われており、その一環として宗教的な題材の詩にカンタータ形式の音楽を付けたオラトリオが演奏されるようになった。初期のカンタータやオラトリオの作曲家としてはジャコモ・カリッシミ(1605年 - 1674年)が重要である。ローマでも器楽は盛んであり、オルガニストのジローラモ・フレスコバルディ(1583年 - 1643年)などが人気を博していた。

カツサン オーダー メルトン キートーン 市田柿 オーララ ミルク 総合山風 スズラン レングス もくず フリル ジスト カッター チュニジ 紅の空 ピンプリ 凪笛 蜃気楼 除の鐘 パトロール オーバー リンター ダイア ヒプノ フィート ズーム ミニコミ 総合大河 マシン トッシュ テトラード フラワー シーエス ラカイト フシグロ トラッ オパール ネービー リスク ザーボード ボエポン ダイジ マター スケール セクト アスン アサイン チューン アース

2009年03月26日

コルセット(英語:Corset)

コルセット(英語:Corset)は、女性用ファウンデーションの一種で、近代から現代にかけて、欧州大陸で一般に使用された。胸部下部よりウェストにかけてのラインを補正する役割を持ち、ヒップの豊かさの強調と対比的に、胴の部分を細く見せた。イギリスでは、コルセットとほぼ同じ目的の補正下着としてステイズ(stays)があった。重層的な構造を持っていたので、ヨーロッパ北部では保温目的でも着用された。20世紀半ば以降は、ファウンデーションの素材の進化とファッションの方向性の変化で、コルセットは廃れ、今日では、医療用や趣味を目的として使用される。
スチック プロパ セッター スロープ サブセ ソンソ キラウエ くるくる デイユース ニクロム ルーガル ドードー トリコロ マリン ハイチ キュー ナビユー ワンダラー カバレ ファイト さやえん カスミソウ グラフ ラードツ リング シンプル パイロー サイン ワーク ワイヤ スペルラ ファイラー スペアイト ナビドウ クトリン スープ ドット スイート 弥生姫 クレド タフネス ダーク フレーバ アッラー フロー リキッド クチュリ フォア ザンス ファイブ

右はコルセットを着用する女性と、それを手伝う女性の図である。 コルセットの形状を維持するためのボーンは鯨髭、ないしは鉄鋼製であった。通常、背後にはハトメに紐を通したレース部分があり、ウエスト部分から取り出された紐を締め付ける事によってウェストをぎゅっと細くする。このような下着では着用に多少時間がかかるが、一人で着用する事も十分に可能である。しかし、右の図のように装着時に手伝いの手があるとよりよく、より早く着付けることができる。 後年、女性の社会進出と共にコルセットが廃れていったのは、コルセットの装着に時間や手間がかかるのもその一因となっている。

2009年03月11日

グレート・ハウスは、チャコ・キャニオンの建築物

グレート・ハウスは、チャコ・キャニオンの建築物や信仰をよくあらわしている祭祀センターであった。グレート・ハウスの形は、何世紀もの時間をかけて発展していったにもかかわらず、いくつかの主要な特徴は、変わらずに保たれてきた。特筆すべきなのはグレート・ハウスは、周囲で弧状になって高く張り出す構造があるということである。チャコ・キャニオンの遺跡は平均して200以上の部屋で構成されるが、なかには700に達する部屋をもつものがある。それぞれの部屋は、丈夫に造られており、アナサジ期に先行する時期に建てられたものは高い壁をもっている。チャコ・キャニオンの遺跡はよく設計されており、大部分ないし外側の袖になる円弧状の部分は、だんだんにつくられていったというより一気に建設されている。チャコ・キャニオンの家は一般的に南向きになっており密封された部屋ないし高い壁に囲まれた中庭(プラザ)部分をもっている。複数階に及ぶ構築物はたいてい4階か5階建ての高さで建てられており、一階にある部屋は直接プラザに面している。各階層の部屋の集まりは段々状に積み重ねられ、プエブロの後ろの部分が最も高くなっている。部屋はしばしば一つの組み合わせになっており、正面の部屋は後ろの貯蔵用に用いられたと思われる部屋よりも大きくなっている。
ファナテ ピータ ロール ネット ズック リゾラバ 君の瞳 バラブル ハンズ グラジ カナル ウェア ポテト イオン トッピグ タイペイ ライボー ナビスカ セリング サーマル リシン ぐんじょ かぼちゃ ワラビ ジェトロ 中葉春菊 てつむぎ スケボー ヨセミ カノ最新 カーゴ たかのす クチン マツバ 紅葉坂 リミット セイウチ 曼珠沙華 ブレード ワンマ イエロー スクリ キラー ヒュー フリージ スチナ さいさく パピル ライク キッズ

キヴァとして知られる儀礼的な空間はプエブロにある部屋の数に比例して造られている。平均すると小さなキヴァは、29の部屋につき一つ造られ、その大きさは、直径3.5mから6.6mくらいである[10]。小さなキヴァを造る分の部屋の集まりの9つ分ごとに一つの特大サイズのグレート・キヴァが造られる。グレート・キヴァには直径22m[11]に達するものもみられる。チャコ・キャニオンにみられるすべてのキヴァは、入口に向かう通路と入口の上に楣石(リンテル)[12]あるといった建築的な特徴がある[13]。建物の壁の種類に単純さや複雑さがみられるものの、一義的にはグレート・ハウスの壁は芯の部分と表面のきれいに仕上げられた部分とで構成されている。壁同士の隙間の部分には荒石が充填される。荒石は建物の壁の芯の部分でも使われている。 建物の壁は小さな砂岩のかけらを土で塗り込めた薄い層でおおわれている。壁の表面に使われた石で特徴的な文様がつくられることがある。すべての壁について考えてみるとチャコ・キャニオンの建物には、113kmも離れた山地から人力で20万本を超えるような多量の針葉樹の木材が必要とされたと考えられる。

大規模でかつ細部まで精密に設計されているような遺跡は、チャコ・キャニオンでは、1030年前後になってから初めて出現する。チャコ・キャニオンの人々は、天体の動きや幾何学的な配列、建物の外観を意識するとともに独特な公共建築物で構成される古代の都市を造りあげていた。研究者はチャコ・キャニオンにある遺跡は相対的に少ない人口しかなく一定の年ごとに行われる行事とか儀礼のために一時的により大きな集団が集まることによってできたと考えている。つまり、10000人くらいがくらせる施設があったが、実際に常時暮らしていたのは2000人ほどで、そういった特別な行事や儀式が行われるときに用いられた宿泊施設であった。より小さな遺跡は、明らかに居住性に関して特徴がありチャコ・キャニオンの中や周囲にあるグレート・ハウスの近くに散在している。チャコ・キャニオン自体は白道に沿っており、チャコ・キャニオンの集落の位置は天文学的な意味からその配置が考えられたと思われる。もしそうでないとしたら、チャコ・キャニオンにあるいくつかの重要な建物の配列の意味が解明しやすくなる。この時期前後に広義のプエブロ人の先祖であるアナサジの社会では人口の増加と建設活動が盛んになった。10世紀を通じてチャコ・キャニオンの建築技術は、周辺地域に徐々に伝播していった。A.D.1115年までにチャコ・キャニオンの建築的特徴をもった集落がサン・ファン盆地に65,000km?にわたって少なくとも70ヶ所つくられた。研究者の中にはそういった集落にみられる建物の機能について本来のグレート・ハウスといっていいくらい大きなものがあることを議論している。グレート・ハウスを思わせるいくつかの建物は、農村社会を超える段階のものであって、交易をおこなう場所か祭祀センターのような機能をもっていたのかもしれない。

チャコ・キャニオンの周辺168,000km?に分布している30ヶ所の遺跡はチャコ・キャニオンの中心部や他の集落と6ヶ所のチャコ道路網で互いに結び付いている。97kmにわたって直線に近いチャコ道路システムがあるようにチャコ道路システムは測量がおこなわれ、精緻に設計されて造られたと思われる。チャコ道路システムの特徴は、9m近い幅でカリーチという岩塩を含んだ沖積層を潰して路床にしているという特徴がみられる。土を突き固めた法面や石を用いて、どきおり低い壁が造られ、それが道路の境界になっている。チャコ道路網は、必要に応じて急斜面に石の階段や岩の斜面をスロープにした通路を築いて崖などの多くの障害物を迂回してつくられる。チャコ道路網のすべての機能は、現在わからない部分があるにもかかわらず考古学者であるHarold S.Gladwinは、ナバホが信じている言い伝えによるとアナサジは遠方から材木を運ぶのに道路を用いたといい、考古学者のNeil Juddもそれとよく似た仮説を提唱している。

2009年02月22日

パプア諸語 (Papuan Languages)

パプア諸語 (Papuan Languages) は、ニューギニア島(パプア)とその周辺の島々に分布する、アウストロネシア語族でもオーストラリア諸語でもない諸言語の総称。パプア・北ハルマヘラ諸語とも言う。ISO 639-2では、「その他のパプア諸語」に3文字コードppaが割り当てられている。

系統関係は立証できていないので、1つの語族ではなく、単に「諸語」と呼ばれる。系統関係が立証できる範囲で、数十の語族が提唱されている。
主にニューギニア島。東へは、ビスマルク諸島、ソロモン諸島、西へは、ハルマヘラ島、ティモール島、アロル諸島。メリヤム・ミル語だけがオーストラリアに。
マニャック フォーク 苺姫 夕べの鐘 オロシ メイド セル チウム スケート オカラヌス ジャグ スマイル 平安夢 リッジ ブング トランプ クション カセット スピリ ラフォーン シーダ トリプル ビロード ウエルト リング ネゲブ あかぼり ピグミー ラッフル シンカー リスク だいふく マシン バルク フリスビー キエフ ミルミル マルキ タッチ セグメント ネブラス セニョー ハマス とりゅふ アップ リヤス ラピス べにかば メモ スキーデ

約800の言語を、460万人が話している。
共通基礎語彙がないため系統関係は立証できないが、文法には多少の共通点がある。

語順はSOV。SOVのアウストロネシア語族、VSOのオーストラリア諸語と異なる。

動詞は複雑に格変化する。

主要言語
4言語だけが話者人口10万人に達する。4つともニューギニア島で話され、トランスニューギニア語族に属する。

西ダニ語 (en:Western Dani): 18万人、インドネシア、パプア州。
エンガ語 (en:Enga): 18万人、パプアニューギニア、エンガ州。
メルパ語 (en:Melpa): 13万人。パプアニューギニア、西ハイランド州。
エカリ語 (en:Ekari): 10万人。インドネシア、パプア州。

分類
分類は流動的。Ross (2005) にもとづく。数字は言語数。

トランスニューギニア語族 (en:Trans-New Guinea languages) (466-493)
セピク語族 (en:Sepik languages) (51)
トリチェリ語族 (en:Torricelli languages) (40-50) (おそらくセピク語族と関係あり)
ラム・低地セピク語族 (en:Ramu-Lower Sepik languages) (40) (Foleyが最初に提案)
拡大西パプア語族 (en:Extended West Papuan) (仮説的)
西パプア語族 (en:West Papuan languages) (27)
東バーズヘッド・センタニ語族 (en:East Bird's Head-Sentani languages) (9)
ヤワ語族 (en:Yawa languages) (1-2)
南中央パプア語族 (en:South-Central Papuan languages) (22) ※
レイクス・プレイン語族 (en:Lakes Plain languages) (19) ※
トル・クェルバ語族 (en:Tor-Kwerba languages) (17) ※
ボーダー語族(タミ語族) (Border languages) (15) ※
メイ左岸・クォムタリ語族 (en:Left May-Kwomtari languages) (12) (問題あり)
東チェンドラワシ語族(東ギールヴィンク語族) (en:East Geelvink Bay languages, East Cendrawasih languages) (10)
南ブーゲンヴィル語族 (en:South Bougainville languages) (9)
スコウ語族 (en:Skou languages) (8)
バイニング語族(東ニューブリテン語族) (en:Baining languages, East New Britain languages) (8)
ニンボラン語族 (en:Nimboran languages) (5) ※
ユアト語族 (en:Yuat languages) (5) (以前はラム・セピク語族に分類されていた)
マイラシ語族 (en:Mairasi languages) (4) ※
東トランスフライ語族 (en:Eastern Trans-Fly languages) (4) (1つはオーストラリア) ※
北ブーゲンヴィル語族 (en:North Bougainville languages) (4)
中央ソロモン語族 (en:Central Solomons languages) (4)
イェレ・西ニューブリテン語族 (en:Yele-West New Britain languages) (仮説的)
イェリ・ダニエ語(イェレ語) (en:Yélî Dnye, Yele) (孤立)
アネム語 (en:Anêm) (孤立)
アタ語(ペレアタ語、ワシ語) (en:Ata, Pele-Ata, Wasi) (孤立)
セナギ語族 (en:Senagi languages) (2) (おそらくセピク語族と関係あり) ※
ピアウィ語族 (en:Piawi languages) (2) (おそらくラム・低地セピク語族に含まれる) ※
そのほか、数十の孤立した言語がある。

※以前はトランスニューギニア語族に分類されていた


2009年02月06日

星亨

星 亨(ほし とおる、嘉永3年4月8日(1850年5月19日) - 明治34年(1901年)6月21日)は、明治時代の政治家(一部の書籍などで「星享」と書かれているものがあるが、誤表記である)。
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江戸の左官屋として生まれる。父が行方不明となり、母が星泰順と結婚し、星姓を名乗る。当初は医学を志していたが、英学に転向し、何礼之の元で英学を学び、後に英語教師として身を立てる。明治維新の後には陸奥宗光の推挙で明治政府に入り、一時横浜税関長となるが、英国のクイーンを「女王」と訳し、「女皇」と訳すべしとするイギリス公使パークスの抗議に、自説を主張し一歩も譲らず、いわゆる「女王事件」を引き起こし、引責辞任した。辞任後、法律研究のためイギリスに渡り、日本人初の弁護士資格を取得した。帰国後は国内で司法省付属代言人(弁護士)の第1号となって活躍し、明治14年(1881年)には自由党の代議士となり、政党政治の基礎作りの一翼を担った。

藩閥政治を批判し、明治20年(1887年)の三大事件建白運動に参加し、保安条例で東京を追われ、出版条例違反で投獄される。釈放後の明治25年(1892年)には自らの衆議院議長就任を公約として第2回衆議院議員総選挙に出馬、当選。公約どおり2代目議長に選ばれる。明治26年(1893年)に相馬事件の収賄疑惑によって議長不信任案が可決される。しかし、議長を不信任となったにも関わらず議長席への着席に固執したため、衆議院から除名された。次回選挙で当選し、政界に復帰する。

藩閥政治に対する批判者であったが、非藩閥の陸奥宗光からは引き続き可愛がられ、朝鮮政府の法律顧問や駐米公使を務める。第1次大隈内閣では外務大臣として入閣する予定であったが、首相の大隈重信がこれを拒否したために憲政党分裂の原因を作った。第4次伊藤内閣において逓信大臣などを務めた。明治33年(1900年)発足の立憲政友会にも参加、伊藤博文からも信頼を受けるようになる。その逞しい政治手腕から「おしとおる」とあだ名された位だった。

星は、積極財政をすすめて地域への利益誘導をはかり、支持獲得を目指す積極主義という政治手法をとった。一方で収賄などの噂も絶えず、日本の政党政治と利益誘導の構造すなわち金権型政党政治を築いたとされる。

日本裏面史より見れば、三多摩の村野常右衛門、森久保作蔵など「大阪事件」以降の自由党右派の壮士たちを政界に引き入れたことで、たとえ星自身が金銭的に潔白であるとしても、東京市政の疑獄の数々には彼の責も大きいと言われる。

東京市議会議長であった明治34年(1901年)、伊庭想太郎(心形刀流剣術第10代宗家)により市庁参事会室内で暗殺された。享年51。

エピソード
明治25年(1892年)11月29日、当時衆議院議長であった星に対する議長不信任案が166対119で可決された。だが、星はこれを「条約改正を支持する自分に対する硬六派(国民協会・立憲改進党ら)による嫌がらせでやましい所はない」として、これを拒否した(大日本帝国憲法下の議院法では衆議院議長は勅任官の扱いを受けて天皇に任免権があった)。そこで明治天皇に対して星の解任を求める上奏案を152対126で可決した。だが、天皇からは「議院自ら不明なりしとの過失」として衆議院の怠慢を責める勅答が下された(これは、星への不信任を当時外務大臣であった陸奥宗光への間接的攻撃とみた伊藤博文が土方久元宮内大臣に要請して出させたものとされている)。そのため、星は尚も議長席に着席して議長の職務を続けようとした。このため、12月5日には星の登院停止1週間処分の決議が出された。だが、登院停止が切れた12月12日に星はまたも議長席に座ろうとした。そこで12月13日に懲罰にかけられて185対92で除名要件である三分の二を超える67%の賛成を得たため、除名処分となり、衆議院議員の資格を失った星は自動的に議長を解任された。
墓所は東京大田区の池上本門寺に所在。かつては本門寺境内に星の銅像も置かれていたが、第2次対戦中の金属供出のため、台座を残して撤去された。戦後、遺族により台座は本門寺に寄進され、現在は日蓮上人の像が置かれている。
「星亨とその時代」全2巻 平凡社東洋文庫が、基本的伝記である。近年ワイド版が出た。
数々の汚職疑惑で今も昔も金権政治の権化と評されているが、私生活では慎ましく実直であったと言われる。彼の存命中はもとより現代の政治家でも妾を持つことは珍しいことではないが、女性関係の潔癖さは彼を非難している側でさえも認めざるを得ず、また、家中にいる者は書生を含めて愛情を持って接したと伝えられる。自らの資産形成に対してもあまり意を用いなかったと見られ、暗殺後に明らかになった彼の遺産は1万円余りの借財だけだったという。

2009年01月22日

戦争犯罪(せんそうはんざい)

戦争犯罪(せんそうはんざい)とは、狭義には戦争に関する法に違反する行為(交戦法規違反)と戦時反逆罪(作戦地・占領地内における非交戦者による利敵行為)を意味し、広義には交戦法規違反に加え平和に対する罪・人道に対する罪を含めた概念を意味する。

具体的には、他国に対して侵略戦争を仕掛けたり、敵兵・捕虜に対して非人道的な扱いをすることなどである。また、民間人に対しての殺戮・追放・逮捕など、紛争や混乱の誘発や報復感情の拡大の原因となる行為と言動も、戦争犯罪であるとされている。

かつて戦争犯罪と定義されていたのは、捕虜の虐待を禁じた「ジュネーブ条約」や、非人道的兵器の使用を禁じた「ハーグ陸戦条約」など、戦時において守られなければならないとされる国際法(戦時国際法)違反行為のみであった。

第一次世界大戦終結後、戦勝国が敗戦国の指導者を裁くことが国際的に協議され、戦勝国であるアメリカ合衆国・イギリス・フランス・イタリア・日本の連合国側は、ドイツ皇帝ウィルヘルム2世を、国際道義に反したという理由から、当時の連合国五カ国の裁判官による裁判にかけることを決めた。だが中立国であるオランダが亡命していたウィルヘルム2世の引き渡しを拒んだため裁判は行われなかった。[1]また「人道に対する罪」はこの時のパリ講和会議において、敗戦国ドイツに対し初めて罪状として指摘されたとする説もある。

第二次世界大戦の最中、連合国側はドイツの残虐行為を幾度も非難し、戦争終結後には責任者の処罰を求める事を強く警告していた。しかし、この時点ではナチスのホロコーストなどの犯罪行為をそれまでの戦争犯罪の定義の範囲でしか捉えておらず、問題視されていたのも戦時国際法規違反のみであった。

だが、1942年ロンドンで、ベルギー、チェコスロヴァキア、フランス、ギリシャ、ルクセンブルク、オランダ、ノルウェー、ポーランド、ユーゴスラヴィアの連合国側9ヶ国により、ナチスの特に民間人への残虐行為を通常の戦争犯罪として扱うのみならず、その犯罪行為に責任を持つべき上官や政府指導者の責任まで問うべきだとする宣言が出され、翌1943年10月のアメリカ合衆国、イギリス、ソビエト連邦、中華民国の各国外相会談によるモスクワ宣言の中で、ナチスの主要戦争犯罪人及びユダヤ民族抹殺計画犯罪人への処罰が言明された。

1945年(昭和20)2月、アメリカ合衆国、イギリス、ソビエト連邦によるヤルタ会談において国際裁判所設置が具体的に言及され、この時点で3国の外相により検討する事のみが協定として成立。その後、度重なる折衝を経て同年6月から戦犯を裁く国際軍事裁判開設のための協議が開催された。同年8月8日ロンドンでアメリカ合衆国、イギリス、フランス、ソビエト連邦の4カ国代表により、戦犯協定が調印され国際軍事裁判所条例が定められた。

定義された戦争犯罪
ヤルタ会談の協定に基づき、1945年6月26日から戦犯を裁く国際軍事裁判開設のための協議が、アメリカ合衆国から最高裁判所判事ロバート・ジャクソン、イギリスから法務長官サー・デイビット・ファイフ、フランスから大審院判事ロベール・ファルコ、ソビエト連邦から最高裁判所副長官ニキチェンコ少将の各国代表によって開始された。8月8日まで本会議だけで16回開催されたが、協議に参加した四カ国の法体系の違いから草案の一語ごとに論争がくり返されるほど、会議の進行は困難を極めた。中でも戦争犯罪の定義については大きく意見が対立し、特にアメリカ合衆国とソビエト連邦の2国間の意見の相違が顕著だった。

ソビエト連邦の草案は、あくまでナチス・ドイツの違法行為を指摘したもので、ナチス戦犯を裁くためにのみ国際軍事裁判所を設置するという意図を示していた。ニキチェンコは「我々の今の仕事は、いかなる時、いかなる事情にもあてはまる法典を起草しようとするものではない」と述べている。

一方アメリカ合衆国側は、ナチスの戦争犯罪を対象にはしていたが、戦争そのものを犯罪とする考えを示していた。ジャクソンは、「侵略戦争の開始は犯罪であり、いかなる政治的または経済的事情もこれを正当化できない」としたルーズベルト大統領の言葉を引用し、「世界の平和に対して行う、いかなる攻撃も、国際的犯罪とみなすということを、ドイツ人たちおよびその他の何人にも知らせたいのである」と述べている。

協議の結果、戦争は道義的に非難されても法律的には許されると考えられていた時代に、終止符をうつものとして国際軍事裁判所の憲章は定められるべきであり、それ故に戦争犯罪の定義を、ある特定の国の犯した行為によってのみ定めるべきでは無いとするジャクソン判事の意見が大幅に採用され、ニュルンベルク裁判ならびに極東国際軍事裁判(東京裁判)で、以下のように戦争犯罪が定義された。

ニュルンベルク裁判における国際軍事裁判所条例第6条

次に揚げる各行為またはそのいずれかは、裁判所の管轄に属する犯罪とし、これについては個人的責任が成立する。

a項-平和に対する罪
すなわち、侵略戦争あるいは国際条約、協定、誓約に違反する戦争の計画、準備、開始、あるいは遂行、またこれらの各行為のいずれかの達成を目的とする共通の計画あるいは共同謀議への関与。
b項-戦争犯罪
すなわち、戦争の法規または慣例の違反。この違反は、占領地所属あるいは占領地内の一般人民の殺害、虐待、奴隷労働その他の目的のための移送、俘虜または海上における人民の殺害あるいは虐待、人質の殺害、公私の財産の略奪、都市町村の恣意的な破壊または軍事的必要により正当化されない荒廃化を含む。ただし、これらは限定されない。
c項-人道に対する罪
すなわち、犯行地の国内法の違反であると否とを問わず、裁判所の管轄に属する犯罪の遂行として、あるいはこれに関連して行われた、戦争前あるいは戦争中にすべての一般人民に対して行われた殺害、せん滅、奴隷化、移送及びその他の非人道的行為、もしくは政治的、人種的または宗教的理由にもとづく迫害行為。
極東国際軍事裁判所条例第5条
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人並ニ犯罪ニ関スル管轄 本裁判所ハ、平和ニ対スル罪ヲ包含セル犯罪ニ付個人トシテ又ハ団体員トシテ訴追セラレタル極東戦争犯罪人ヲ審理シ処罰スルノ権限ヲ有ス。

(イ)平和ニ対スル罪
即チ、宣戦ヲ布告セル又ハ布告セザル侵略戦争、若ハ国際法、条約、協定又ハ誓約ニ違反セル戦争ノ計画、準備、開始、又ハ遂行、若ハ右諸行為ノ何レカヲ達成スル為メノ共通ノ計画又ハ共同謀議ヘノ参加。
(ロ)通例ノ戦争犯罪
即チ、戦争ノ法規又ハ慣例ノ違反。
(ハ)人道ニ対スル罪
即チ、戦前又ハ戦時中為サレタル殺人、殲滅、奴隷的虐使、追放、其ノ他ノ非人道的行為、若ハ犯行地ノ国内法違反タルト否トヲ問ハズ、本裁判所ノ管轄ニ属スル犯罪ノ遂行トシテ又ハ之ニ関連シテ為サレタル政治的又ハ人種的理由ニ基ク迫害行為。
上記犯罪ノ何レカヲ犯サントスル共通ノ計画又ハ共同謀議ノ立案又ハ実行ニ参加セル指導者、組織者、教唆者及ビ共犯者ハ、斯カル計画ノ遂行上為サレタル一切ノ行為ニ付、其ノ何人ニ依リテ為サレタルトヲ問ハズ、責任ヲ有ス。